言い尽くせない感謝

自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

「法人の人権」とは・・・

 債権各論レポの件で、私のような者のために身に余るコメントを頂戴し、本当にありがたいと思いました。私の稚拙なブログをご覧になった学友より、お祝いのお電話まで頂戴してしまいました。

 通信教育課程に入学しながら、このような素晴らしい方々と出会うことができるとは、当初全く想像もしませんでした。本当に、学友の皆様には「言い尽くせない感謝!」の気持ちで一杯です。

 さて、たしか「好事魔が多し」ということわざがあったと思いますので、さらに一段とわきの下を固めて、勉強したいと思います。

 早速ですが、ここ数日は法人の人権について、その深さと学説の激しい対立具合を実感するところとなり、まいったなあ~というのが正直なところです(苦笑)。これだけで、一本の論文は書けそうなテーマです。

 松井先生の説、長谷部先生の説、慶應の駒村先生の説など・・・学者さんの批判は、とても知的な言葉での応酬なので、文献を読んでいると最初はどの説も正しく感じてしまいます(笑)。では、自説はどれに相当するのでしょうか・・・という選択が容易ではありません。

 この点、債権各論M先生に教えていただいたことを実践しなければと思います。「可哀想だから・・・」とか「こちらの説が一般的な価値観からみて正しそう」という、法的な論拠に乏しい感情が論文に見え隠れする私の欠点を認識しておかなくてはなりません。

 法人の人権についての学説の対立状況についてはさまざまな文献に記載されていますが、私にとっては次の文献がとてもわかりやすかったです。

鈴木秀美「マス・メディアの自由と特権」小山剛・駒村圭吾編『論点探究 憲法』弘文堂、2005年、161頁以下。

 「法人の人権」を考察する上で、いろいろと検討していましたら、結局「国家とは何ぞや」というところまで遡って検討する必要がでてしまいましたので、すごく時間がかかっています(苦笑)。夏に勉強した福澤先生の国家論がここで役に立つとは想定外でしたが・・・『学問のすゝめ』や『文明論之概略』などに記述されていることから、

 「一身独立」→「一家独立」→「一国独立」→「天下独立」→「独立自尊

が福澤先生の国家観とのことですね。

 この点については、私は長谷部先生の以下の説にのっかっています。

<国家の必要性と正当性:法の3つの役割>

国家の必要性と正当性は、国家や民族あるいは社会等の集団そのものの持つ価値からではなく、個人の権利や利益から導かれるとの考え方から出発している。国家の主要な任務として、第一に調整問題の解決であり、第二は公共財の提供であり、第三が人権の保障である。
(長谷部泰男『憲法・第4版』新世社、2008年、8頁。)

      ↓

<法の支配>

法の支配は、国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することにより、国民の自由を保障しようとする理念である。人の支配ではなく、法の支配を実現するためには、何よりもそれが従うことの可能な法でなければならず、法に基づいて社会生活を営むことが可能でなければならない。
(長谷部泰男『憲法・第4版』新世社、2008年、20頁。)

法の支配は、法が備えるべき条件の一つにすぎず、他の要請の前に譲歩しなければならない場合もあることに留意しなければならない。法の支配を支える根拠となる個人の自律や社会の幸福の最大化という目的自体が、国家の役割の拡大をもたらしているからである。
(長谷部泰男『憲法・第4版』新世社、2008年、21頁。)

      ↓

<国家と人権>
(先日考察した内容)

      ↓
<「人権」と「憲法上の権利」の違い> や <「切り札」としての人権>
 (今後あらためて考察しますが、「法人の人権」については以下の点がポイントとなります)

憲法上保障された権利には、「切り札」としての人権と、公共の福祉に基づく権利の2つの種類のものがあることを正面から認識する必要がある。憲法上の権利の持つ複合的性格からすると、法人に認めることが許されるのは、そのうち公共の福祉を理由とする権利にとどまる。反面、個人の自律を保障しようとする観点からは、むしろ巨大な社会的権力たる法人からの自由を個人に認める手段として、「人権規定の私人間効力」が重視されることになる。
(長谷部泰男『憲法・第4版』新世社、2008年、120頁。)

 つまり、ロナルド・ドゥオーキン先生により提唱された「切り札」としての人権を、再度しっかりと考察しなおす必要があります。以前チャレンジしたものの、私の学力では全く相手にしていただけなかったロナルド・ドゥオーキン先生の『権利論』に、近日再度チャレンジしてみます。

 さあ、この半年間で、どこまで力がついているでしょう。あっさり返り討ちにあうかもしれませんが(笑)、かりにそうだとしても今の力の無さを嘆いても仕方ないので、あきらめず、顔を上げて一歩一歩着実に前進していきたいと思います。


”Therefore we do not lose heart.
Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.
For our light and momentary troubles are achieving for us an eternal glory that far outweighs them all.
So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen.
For what is seen is temporary, but what is unseen is eternal.”
(2 Corinthiams 4:16-18)

ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(コリント 4章 16~18節)