言い尽くせない感謝

自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

「国の基本権保護義務論」の日本への導入

 前回掲載の通り、国の基本権保護義務論を小山先生が日本にどのように導入しておられるのかを考察していきたいと思います。

 まずは、今朝も基本権保護義務論を批判的に捉えておられる西原先生のご意見を、重ねて掲載します。

 「国家機関による『実現』過程を経て人権の意味内容が立ち現れてくるという説明がなされる時、それは一見、多くの人にとって有益なことのように見える。しかし、本当にそうなのだろうか」と指摘した上で、

 「多数派にとっては、国家機関が代りに自分たちの利益を実現するようになると、その利益を守るために政治過程に訴える力量が失せ、さらに、多数決では守られない利益は顧みられなくなる危険がある」

とし、一方

 「多数派が、国家機関による人権実現という枠組の中に自分たちの利益にかなった制度構築を期待し始める時、民主的な圧力にさらされる国家機関に、場合によっては破壊的な個人の恣意の自由をそのまま実現してくれるものと期待してしまう」
西原博史「保護の論理と自由の論理」長谷部泰男・西原博史他編『人権論の新展開』岩波書店、2007年、304-305頁。)

と批判しておられます。


 小山先生は、前回記載したヨーセフ・イーゼンゼー先生や西原先生のご意見などに対して、どのようなお考えをお持ちなのでしょうか。考察してみますが、とても全部は書ききることはできませんので、ポイントだけ掲載していきます。

 小山先生は、有名な『基本権の内容形成 ― 立法による憲法価値の実現』で以下のように述べています。

 「イーゼンゼーは、基本権保護義務は、基本権主体に『自分自身からの保護』を与えるものではなく、保護義務の適用を不法行為法の領域にとどめ、契約関係に拡張すべきではないと結論づける。」
(小山剛『基本権の内容形成 ― 立法による憲法価値の実現』尚学社、2004年、157頁。)

 イーゼンゼー先生のお考えについて、小山先生は、

 「ドイツにおける基本権保護義務の基礎づけは、主として基本権論によりこれを行う見解と、国家論によりこれを行う見解とがあり、イーゼンゼーは後者の代表的論者である。国家目的論が基本権保護義務論の思想史的な先駆けであったということはできよう。」とした上で、基本権保護義務は、「私闘禁止や自力救済禁止と同じものではなく」、

 「特に国家目的論の多様性にかんがみれば、国家目的としての安全を憲法上の基本権保護義務へと直線的につなげていくことに対しては、注意が必要であり、これが憲法上の基本権保護義務論を直接に基礎づけるものではなく、保護義務に関わる個々具体的な解釈問題に対する解答を国家目的論に求めることはできない」
(小山剛「国家の基本権保護義務」芹田健太郎・棟居快行・薬師寺公夫・坂元茂樹編『国際人権法と憲法信山社、2006年、239頁以下。)

と述べておられます。

 以上のことから、小山先生は、ドイツの基本権保護義務論について、国家目的論ではなく、基本権論で日本に導入しようとなされたのではないだろうか、と推測することができると思います。

 では、西原先生が批判しておられる「国による積極的な人権保護制度の枠組みが構築された場合の、国に対する過剰な期待と少数派の人権保護の問題」についいて、小山先生はどのようにお考えなのでしょうか。

 日本の憲法学では、基本権保護義務論の導入により、「国による私的自治に対する過剰な介入」の危険性が高まることで、

 「国家に対する防御権としての憲法

という、これまでの伝統的な憲法観を希薄にしてしまうという危惧があるのではないかと想います。

 この点について、小山先生は、「日本の憲法学において保護義務論に対する原理的な拒絶が残っているのは、いわば保護義務論が錦の御旗となり、法治主義が構築してきた『国家からの自由』の保障を空転させるという懸念があるためであろう」

と、前掲「国家の基本権保護義務」247頁で述べておられます。

 そろそろ出勤準備時間ですので、これらの問題については次回継続して考察していきたいと思います。

 他の学者さんの意見にも真摯に耳を傾けつつ、それを「愛を持って包み込む」ような、そんな論文が出来たら嬉しいと、ふっと想ってしまいました。現状は、とてもその域までいかず、目一杯な状態ですが(笑)。


Finally, all of you,
live in harmony with one another; be sympathetic, love as brothers, be compassionate and humble.
Do not repay evil with evil or insult with insult, but with blessing,
because to this you were called so that you may inherit a blessing.
(1 Peter 3:8-9)

最後に申します。
あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
(ペテロ 機。馨蓮。検檻浩瓠