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自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

私人間効力における「私人」とは

 卒業論文(題目:インターネット検索事業者による「検閲」と表現の自由)の結論部を、「さまざまな関連するキーワードを一同に集結させて」論述する内容をここしばらく考察中です。

 その上で今朝は、「憲法上の権利条項を『適用』する」意味における「私人とは、いったい何者であるか」という問題を考察していきたいと思います。だんだんと核心部分に迫ってきますね。長谷部先生の『憲法・第4版』新世社、2008年では、136頁となります。

 昨日は、憲法の「直接適用説」と「間接適用説」との間に、それほど大きな差異があるわけではないですよ、という点を考察しました。ドイツの有力なアレクシー説などにより、憲法上の権利条項は一定の方向に結論を導く傾向的な力を持つ「原理」を定めるものである、という重要ポイントも考察しました。

 では、憲法21条の「表現の自由」などの憲法上の権利条項を適用することにより、逆にその自由が侵害されるおそれのある「私人」とは、いったい何者なのでしょうか。見過ごしがちな論点のような気もします。

 例えば、巨大な社会的権力を持つマスメディアなどの「法人」の権利を、一般市民の権利と同様に保障することは「自明」なのでしょうか・・・

 長谷部先生の説によると、「自明であるわけではない」(前掲『憲法』136頁)とのことです。

 奥平先生も、「社会支配体制の構成員たる巨大法人やそれに従属するもろもろの企業法人など、個人に比べて格別に発言力の強い会社組織に、個人と平等な発言の機会を与えることが、表現の自由にとっていいことなのか」(奥平康弘『表現の自由 ― 現代における展開』有斐閣、1986年、154頁以下。)と指摘しておられることから、本件については大いに議論の余地があると思われます。

 この点につき、巨大な社会的権力者である法人(インターネット検索事業者)の表現の自由についての私の卒業論文では、「今のところ」以下の通り論述しています。

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 インターネット検索事業者に対して、多様な意見を公平にとりあげるよう求めることについては、公平な検索結果を表示させるよう、法的に義務づけることを意味する。そうすると、インターネット検索事業者側の表現の自由(検索結果の内容を決める自由)が公権力により侵害されることになる、という意見も生まれてくる。
 しかし、政府の検閲力を制限することを目指してきた従来の法律では対処しきれない、インターネット検索事業者による巨大な権力が台頭しており、私人における表現の自由が侵されようとしているのも事実である。頑固さと愚昧化を助長し、それにより社会が環境の移り変わりとか新しい思想の発展などに適応することを妨げるのは、公権力による抑圧に限るものではない。つまり、「第三次産業の新しいインターフェース」であり「社会の公器」となった「インターネット検索」が実質的に寡占的な市場となっており、かつ市民が情報を収集するための道具として日常的に利用されている現実において、表現の自由の制約については「新しいパラダイムが形成され、表現の自由に関する企業の支配力が中心的な問題」 となっているのである。

※「第三次産業の新しいインターフェース」
ジョン・バッテル(中谷和男訳)『ザ・サーチ ― グーグルが世界を変えた』日経BP社、2006年、267頁より。

※「社会の公器」
経済産業省『知的情報アクセスがもたらす文化・社会・経済的影響を考える分科会報告』2006年7月7日付、11頁より。
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 「法律では大規模な多国籍企業と個人を分けるべきであり、単純に個人と多国籍企業を同列に扱えば、公正という法の秤が大きく傾くことになる」(ジェレミー・ハリス・リプシュルツ(尾内達也訳) 『インターネット時代の表現の自由皓星社、2004年、496頁。) という説もあります。

 そうすると、自然と湧き上がってくる疑問・・・そうですね、「法人の人権」、すなわち、

 「法人が憲法上の権利をも享受しうるか」

について考察する必要があります。この点については、八幡製鉄政治献金事件」をもとにあっさりと結論付けてしまうと、これまた私人間効力を表面的に理解してしまうことになりそうです。

 「私人間効力論」の根源にいよいよ突入ですね。納豆のようにねばっこく、反論意見もきちんと考察した上で自説をまとめていくためにも、この点を次回考察してみたいと思います。

 「根源」といえば、シリコンバレーにあるサンタクララバレー中尾牧師先生の最新メッセージにも、「根源」について述べられていました。
http://penguinclub.net/nakao/sermons/acts/acts8-34.html

 「貧困、病気、失業、災害、家族の不和、人間関係のトラブル、いじめや差別など、さまざまなものが私たちを苦しめますが、実は、私たちを最も不幸にしているのは、罪なのです。それを認めようが、認めまいが、人間の不幸の根源が罪であることは事実です。罪の解決がないかぎり、問題は本当には解決しません。」

”Repent and be baptized, every one of you,
in the name of Jesus Christ for the forgiveness of your sins.”(Acts 2:38)

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、
イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(使徒の働き 2:38)