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自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

「切り札」としての人権 その2

(・・・「切り札」としての人権 その1 より)

 長谷部先生は、私人間の権利の対立について、次のように述べておられます。

 「法人と対立している当事者の権利が、個人の自律を根拠とする『切り札』としての人権であるとすれば、直接適用であれ間接適用であれ、その人権を保障すべきだという結論が導かれよう。このような意味での人権は、国家成立前の自然状態においても、また何人に対しても主張できるはずの権利であり、対国家防衛権にとどまるものではない。当然、社会的権力たる法人に対しても主張できるはずである。
 他方、問題となっている個人の権利が一般的な行動の自由であったり、公共財として憲法によってとくに保障されているような権利であるとすると、対立する法人の利益との比較衡量が必要となる。『切り札』としての人権が問題となっているか否かは、いかなる理由に基づいて私人の自由や平等が侵害されているかによって判断されるべき部分が大きい。もっとも、その判断は、果たして当該法人の設立・運営の目的という観点から問題となっている自由や平等の侵害が合理的に説明できるか否かの判断と重なり合うことが多いであろう。後者の答えが否であれば、社会的権力によって個人の根源的な平等性が否定されているとの推定が成り立つと考えられる」。
(長谷部泰男『憲法・第4版』新世社、2008年、139頁。)


 私の卒論においては、インターネット検索事業者による、情報の送り手の自由、知る権利の侵害(の疑い)は、「切り札」としての人権の侵害といえるか?

ということを、「切り札としての人権その1」の最後で記載しました「ストリートビューによるプライバシー侵害(の疑い)は、「切り札」としての人権の侵害といえるか?」とあわせて、卒論の結論部で考察することになります。


 「切り札」としての人権の侵害という結論が出た場合に、その次で考察するのが、その救済策として「国の基本権保護義務」論を適用していく・・・私の稚拙な学士論文は、ここまでが精一杯ですね。

 「切り札」としての人権論、および私人間効力論を深く研究していく学力と余裕は、冷静に自分を見つめた場合、自分には存在していないと思われます。追求するなら大学院行きですね(笑)。他の方の修士論文や博士論文を少なからず拝読させていただきましたが、どれもそれぞれの著者にとっては努力の結晶ですから、素晴らしいですね。


”Since you are precious and honored in my sight, and because I love you”(Isaiah 43:4)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43章4節)