昨日に引き続き、Boring夫妻が敗訴したグーグルストリートビュー事件について考察を続けたいと思います。
・通常の裸眼では実現困難な「視線」を実現する撮影装置
・一般公衆において「入手不可能」、かつ、「広く利用されていない」撮影装置
を車の上部に搭載し、外壁の上から(家屋の外から)撮影し、データベース化してほぼ無限定といってよい閲覧対象者に対してその情報を流通させているのが、グーグルストリートビューともいえるのではないでしょうか。
日本の場合は、外壁を乗り越えなければ閲覧に供されないような部分まで、上記撮影装置によりデータベース化され、国境を超えて世界中にその情報が流通されている状況です。
ところが、アメリカの住宅事情は、日本と異なり、そういった外壁が存在しないことも少なくないため、通常の裸眼で実現可能な視線と同等レベルしか撮影されていないことが想定されます。そうしますと、Boring事件における判決文を読む限りでは、プライバシーを著しく侵害されたとまではいいきれないかもしれません。
日本での裁判ではなく、米国での裁判ですから、米国におけるこうした特殊な撮影装置を用いたプライバシー事件について考察してみたいと思います。
以前、駒村先生の文献について書きました。
●駒村圭吾先生の 「『視線の権力性』に関する覚書」
http://blogs.yahoo.co.jp/kmdbn347/37746208.html
この文献で紹介されています事件については、プライバシー全般についてではなく、あくまでも合衆国憲法修正第4条との兼ね合いでのプライバシー事件ですから、そのまま今回のストリートビュー事件に当てはめることができるわけではありません。しかしながら、米国最高裁が、こうした特殊撮影装置を用いた事件について、どういった場面であればプライバシー侵害を認めているのかはとても参考になりました。
●KYLLO V. UNITED STATES (99-8508) 533 U.S. 27 (2001)
http://www.law.cornell.edu/supct/html/99-8508.ZS.html
この事件は、非接触型の特殊な装置(Thermal Imager)を用いて捜索した件につき、最高裁がプライバシー侵害を認めたものです。
この判決におけるJustice Scalia(スカリア裁判官)の意見書で用いられたのが、上記ブログでも記載しましたKATZ事件におけるハーラン裁判官(John Marshall Harlan II)の意見、いわゆる「ハーラン・テスト」のようです。
●スカリア裁判官の意見書
http://www.law.cornell.edu/supct/pdf/99-8508P.ZO
●KATZ v. UNITED STATES, 389 U.S. 347 (1967)
http://www.enfacto.com/case/U.S./389/347/
スカリア裁判官の意見書について、詳しく研究していきたいと思います。
それとともに、ドイツにおける「奉仕する自由」論を、鈴木秀美先生の文献等をもとに再検討しつつ、
・グーグルの「表現の自由」の保障根拠や、「表現の自由」の二元論
・日本においてストリートビューを法規制しない場合の、国家の不作為についての問題
についても順次考察していければと思っています。
グーグルは、歴史上まれにみるような革命的なサービスを提供しており、市民がその恩恵を受けることも少なからずあります。しかしながら、米国で認められるからといって、日本で当該サービスを開始するにあたり十分な告知期間や市民に理解を求める体制を設けず、結果的に市民に歓迎されない事態を自ら招くのでは、長年にわたりグーグルのファンであり利用者である私にとっては、とても残念に思います。
グーグルにおいては、その国々の社会通念や法的環境等の事情にあわせて、できる限り市民から歓迎されるようなビジネススタイルを今後大切にしていただきたいと願います。外資系企業ということで、日本法人がどれだけ本社の意思決定への影響力を持っているかにもよるかもしれませんが、ベンチャー企業時代とは異なり、これだけ社会的権力者となったグーグルの場合は、その社会的立場と責任の重大さを実感すべきときにきていることは間違いないと解します。
”seek the peace and prosperity of the city to which I have carried you into exile.
Pray to the LORD for it, because if it prospers, you too will prosper.”
(Jeremiah 29:7)
「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」
(エレミヤ 29:7)