今朝は、戦後のアメリカ憲法学における表現の自由の議論に指標となる出発点を示し、わが国における議論の基礎をもたらしたトーマス・エマスン( Thomas I. Emerson, 1907-91 )先生の以下の文献を勉強することができました。
T.I.エマスン(木下毅訳)『現代アメリカ憲法』東京大学出版会、1978年、252頁以下。
論点は、ステイト・アクション法理における憲法の射程についてです。
「『州の行為』ないし『国家行為』とは何であるか、さらに州としては平等を『否定する』(deny)することが許されるのか、それとも州は平等を『保証する』(ensure)責務を負っているのか、すなわち、州は平等を保証する積極的義務まで負っているのか、といった問題」についての争点の中に、実質的平等への指向と、形式的平等から配分的正義への方向を示唆しているといえよう」と述べておられます。
※T.I.エマスン・前掲 255頁。
エマスン先生によると、 「形式的平等」(formal equality)、「実質的平等」(actual and real equality)について、次のように述べておられます。
「形式的平等」とは、自由放任主義(laissez-faire)体制、すなわち実質的に不平等な体制の下で法による平等の取扱いを保証すればそれでよいとする見方である。
一方、「実質的平等」とは、現実、既得権(vested advantages)、既成の不利な条件(built-in handicap)等を考慮に入れ、自由放任主義の枠を超えて、「結果」(result)ないし「必要性」(need)に基づく「配分的正義」("distributive justice")の実現を目的とする見方である。
※T.I.エマスン・前掲 252頁。
だんだんと、小山先生の提唱しておられる国の基本権保護義務論と近づいてきた雰囲気がありますね。国の基本権保護義務論は、ステイト・アクション法理と排他的な関係ではないと思います。
小山先生のお人柄の通り、先生の提唱しておられる憲法観は、国家に対する防御権であるとともに、国民の基本権の法益を保護するとても温かいものであることを、今朝も実感するものです。小山先生は素晴らしい先生ですね。小山先生ゼミの通学生が本当に羨ましいです(笑)。
●川端牧師先生のコラムより:「電車に乗っても座らない主義」
http://www.glorychrist.com/modules/sections/index.php?op=viewarticle&artid=286
「何につけても、人に負けまいと先を争い、心に余裕がなくなった生活の中で、何か一つでも譲ろうという気持ちを持つと、生活全般にゆとりが回復し始めるのですね。あなたも、何か譲ることをしてみませんか。」
"If anyone wants to be first, he must be the very last, and the servant of all."
(Mark 9:35)
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」
(マルコ9・35)