「デュー・プロセスと、ステイト・アクションの法理」
英米法レポートというより、個人的な研究テーマとなってしまいました。今夜も論文書いていました。
実は、とある憲法専門の先生に、このテーマについて質問させていただきました。
あまりの唐突な質問内容に先生も最初はお困りでしたが、さすがプロ、私のつたない説明にもかかわらず、あっという間に研究上の問題点等を指摘してくださいました。
先生、超ご多忙の中お時間をとっていただき本当にありがとうございました!「おもしろいテーマじゃないか」とおっしゃっていただけたことで、どんなに救われたことか・・・おそらく、今後の私にとって、この一言はものすごく大きな意味を持ちはじめるのではないかと思います。
「東大の奥平名誉教授が、憲法学上の○○○の点でグーグルさんを問題にしていまして・・・」と最初にお伝えすればもっと話はスムーズだったかもしれませんが、そういう発言の仕方は、「権威でものを言うことになり、リーガルマインドに反する」と以前勉強していましたので、一切東大の先生のことは述べずに、自分の理解している内容をもとに先生とお話しをさせていただきました。
・・・ということで、今夜は手書きレポートが入った(すでに封をし終えて切手を貼り投函準備万全であった)封筒を、バリバリと破いて、またレポートを手書きで数枚修正することに・・・
私の要領が悪いだけなんですけどね。まあ、「三歩進んで二歩さがる」ということで(笑)
それはともかく、このような勉強の機会に導かれたことに感謝です!
<以下は、私自身の今夜の悔い改めです>
●サンタクララバレー教会中尾牧師先生の最新メッセージより
http://penguinclub.net/nakao/sermons/mark/mark5-25.html
『苦しみから救われたいために神に近づくのは、「苦しいときの神だのみ」のようで、良くないことだと考えている人もいますが、そうではありません。神は、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」(詩篇50:15)と言っておられます。神ご自身が「苦しいときは神だのみをせよ。」と言っておられるのです。この世に苦しみのない人は誰もいません。たとえ、その人が「自分はすべてに恵まれていて、苦しみなど無い。」と言ったとしても、世界中の苦しみの中にいる人のことを見聞きしたら、きっと自分の心に苦しみを覚えるでしょう。もし、人の苦しみを痛みとして感じないとしたら、その人は、自分の冷淡さを苦しむべきではないでしょうか。』
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」
”I am the vine; you are the branches.
If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit” (John 15:5)