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自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

「カール・シュミットの」ではなく、「カール・シュミット流の」制度的保障論

 昨年11月に制作しました「インターネット検索事業者による『検閲』と表現の自由」という論文で取り上げた問題に関して、具体的な立法政策を検討し憲法価値を実現する研究をするために、小山剛先生の文献『基本権の内容形成-立法による憲法価値の実現』を、以前よりも深く掘り下げて研究させていただいています。現在は、基本権理解をする上で第一章「基本権と法律の親和的関係」における「峻別思考」と「非分別思考」および制度的保障論のところを研究しています。

 その上では、ドイツの基本権論をまず研究する必要があることから、先日もこのブログで書きましたが、石川健治先生の文献『自由と特権の距離――カール・シュミット「制度体保障」論・再考〔増補版〕』を読み始めているところです。

 小山先生の前掲文献では、「シュミットの」ではなく「シュミット流の」制度的保障論と記載されています。これはいったいどういう理由から、わざわざ「流の」という表現をなさったのでしょうか?

 小山先生の前掲文献では、「本書において『シュミット流の』理論とは、シュミットの原意という意味ではなく、日本においてシュミットの制度的保障論と一般に紹介されているものを指している。」(前掲・16頁)と示されています。

 本件については、石川先生の前掲文献にも記載されています。以下は「わたし流の」解釈です。

 どうやら、カール・シュミット本人による制度的保障論ではなく、その理論を「自分流」に解釈した論者のみなさんが提唱した制度的保障論が、あたかもシュミットの名において日本における通説として定礎されたのが原因のように思われます。しかも、「シュミット流の」学説は批判的立場にさらされているようです。

 この点につき、石川先生は「本書で呈示される解釈は、シュミットの名で語られてきた従来の(日独双方における)制度的保障理解に対して、シュミットの立場から根柢的な異議申立を行うものである。」(前掲・8頁)とお書きになっておられます。

 社会人大学生として、許された時間のなかで一年以上の時間がかかって制作した論文ではありますが、残念ながら制作過程においては、ここまで細かな研究はしていません。「木を見て森を見ない」ことになってはいけないかもしれませんが、もっと深く、かつ専門的に憲法の研究活動をしていくためには、こういった研究活動にもチャレンジしてみたいと今のところ思っております。

 なぜか、自然の流れで、ドイツ公法の一端を研究していますが、正直言って原文(ドイツ語文献)にあたらなければならない日が来るのではないかという思いから、20年前にもっとまともにドイツ語を勉強しておくべきだったと反省しています。

 20年前の成績表を振り返ると、なぜか英語は4単位しか取得していないのに、ドイツ語は8単位取得しているものの、目の当てられない成績であり、とても恥ずかしくてドイツ語を勉強しましたとはいえない状態です。

 結局のところ、何事もそうなのでしょうが、日々やるべき小さなことを丁寧に行わないことのツケは、いずれ他ならぬ自分自身に跳ね返ってくるということなのでしょう。自省します。

 "Whoever can be trusted with very little can also be trusted with much,
and whoever is dishonest with very little will also be dishonest with much.”
(Luke 16:10)

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、
小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ 16:10)