言い尽くせない感謝

自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

慶應通信で社会人が学ぶ意義

 これまで数多くの「社会の先導者」を生み出してきた慶應義塾大学は、今期創立150周年を迎えています。その慶應義塾には、通信教育課程が存在し、しかも「通学生と通信生が同じ学位をいただける」という日本で唯一ともいわれる制度を持っています。

 その通信課程で、社会人が大学生として学ぶ意義や目的は、人それぞれですので、何がよいとか、そうでないとかということはないと私は思っています。ですから、成績や卒業まで費やした期間も他のだれかと競争する必要もありませんので、余分なストレスもかかりません。たしかに振り返れば、もっと成績が良い方がよかったな~とは思いますけど(笑)。

 私に関していえば、たまたま所属する法学慶友会の会長さんの志がステキで、次世代の先導者を一人でも多く法学慶友会から輩出できるような役割を担っておられることから、その支援を私も依頼されております。

 ですから、私自身はともかく、次世代の先導者となるような方、あるいはその方を物理的・精神的に応援するような方が一人でも多く法学慶友会から育っていったら・・・という視座で、できるだけ学友と触れ合う必要が私には役割として与えられています。
 

 思うに、通信教育課程と一般通学課程の先生が共通で、しかも現役議員さんなど今後の日本の政治・経済政策に直接関わっておられる先生や、学説の第一人者的な先生(あるいは近い将来そうなる可能性があるお若い先生)と直接お話したり、論文を通じてそれなりに議論できることは、本当に素晴らしいことです。

 企業や家庭内など、それぞれの専門分野において大なり小なり社会人経験を経た通信生の強みである、「実務経験を経たものでしか知りえない実態」をベースに、論文等を通じてまさに法案を作っておられる先生(あるいは将来それに直接・間接的に関与する可能性がある先生)と直接議論できることは、社会人が大学生として再び学ぶ意義の一つを見出すものです。昨夜も、敬愛する学友と学友の論文についてメールで会話をしていたのですが、上記のような話になりました。

 私も含めて、大半の学部生の論文は、既存の学説・判例の上に乗っていると思いますし、また、既存の学説・判例の上に乗っていないオリジナルな論述では、(どんなに実務経験をベースにしているとしても)法律論文としては説得力に欠けてしまうのが大半だと思います。

 その上で、いかに法律分野の大家である先生、あるいはそうなる可能性がある先生のお心に、多少でも響く論文を提示できるか・・・は、慶應スピリッツを背に、卒論とか卒業の枠を超えた、社会人大学生の社会的な役割の一つであると解します。「学問の力+実務の力」を併せることによって、さらによりよい社会が近い将来構築される可能性も生まれるのではないでしょうか。


 ですから、泥臭く、愚直なまでに、だめもとで、それぞれの論文テーマをもとに社会にお役に立つことができる可能性を、一人でも多くの方に追求していただきたいと節に願います。

 また、それを支えたり、励ましたりする「友」もまた、それに貢献することになりますね。ホームランを打つ人もいれば、バントでつなぐ人、ベンチで励ます人、それらの人を家庭や職場で支える人、「祈る人」・・・みんなの力が結集してはじめて、何かのヤマが動くのかな、とも思います。

 先日卒業が決まった法学慶友会のある学友は、裁判員制度についての論文を制作し、繰り返し繰り返し、機会あるごとに、愚直にその問題を述べておられます。その方も一見、本当に普通の方です。でもこういう時代だからこそ、まじめに直球を投げ続け、直球勝負を挑んでおられるお姿には感銘する次第です。これこそ、まさに見せかけではない「ホンモノ」かもしれません。

 自分中心に人生を送りがちであり、また「そのどこが悪い」という価値観も普及しているように思う昨今において、内面から湧き出る「美しさ」とは、こういうことをいうのだろうな、と、いつもお会いしてお話するだびに思います。

 
”Therefore we do not lose heart.
Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day.
For our light and momentary troubles are achieving for us an eternal glory that far outweighs them all.”
(2 Corinthians 4:16-17)
ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。