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自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

インターネット検索事業者と「国の基本権保護義務」その2

(インターネット検索事業者と「国の基本権保護義務」その1 より)

 では、 私の卒業論文テーマ:インターネット検索事業者による「検閲」と表現の自由

に「国の基本権保護義務」を適用した場合、どのような解決策を導き出すことができるでしょうか?

 その上で、国の基本権保護義務についての日本での第一人者である慶應大学法学部教授の小山剛先生が、どのように日本へこの理論を導入しておられるのか考察する必要があります。

 まず、イーゼンゼー先生が主張された国家目的論による基本権保護義務論についての小山先生のお考えについては、以前簡単ですが下記記事にて記載しましたので省略します。
http://blogs.yahoo.co.jp/kmdbn347/34596125.html

 小山先生のお考えは、代表的な著書である『基本権保護の法理』成文堂、1998年に凝縮されていると思われます。

 「国の基本権保護義務とは、国の憲法上の作為義務であり、その目的は、生命・健康・その他の基本権法益を、第三者による侵害から防禦することである。したがって、基本権保護義務は、国・要保護者・侵害者という三者から構成される、法的三極関係を構造上の特徴とする。国は、基本権の「敵」から、基本権の「敵」+「擁護者」へと、役割を転換する」。
(小山剛『基本権保護の法理』成文堂、1998年、318頁。)

※この点については、私の勉強不足、理解不足が大きく影響した考えですから、事実とは異なるかもしれませんね。直接先生にいろいろとじっくり教えていただきたいので、通学生が羨ましいです(笑)。


 国の基本権保護義務論の憲法上の基礎付けについては、イーゼンゼー先生が主張する国家目的論ではなく、次のように述べておられます。

 「基本権保護義務の憲法的基礎づけは、基本権論を基軸とすべきである。国家目的論は、補強的論拠として援用されるべきであり、基本権論および基本権保護義務論が国家論に従属してはならない。保護義務の正確と範囲を決定するのは基本権であり、基本権とは異質の要素を含む、基本権の外になる形象であってはならない。この点に留意した上で、基本権保護義務を、基本権論と国家論とによって二重に基礎づけるのが適切であると解される」。
(小山剛『基本権保護の法理』成文堂、1998年、319頁。)


 西原先生などが懸念しておられる、「保護義務論が錦の御旗となり、法治主義が構築してきた『国家からの自由』の保障を空転させてしまう」という件については、

 「基本権保護義務が、各人の自己決定ないしは自律の保障を内実とする基本権の客観法的側面から基礎づけられることに鑑みれば、当人の意思に反した保護は、保護義務論によって要請されるものでもなければ許容されるものでもない。国家による後見的な保護の強制や、理性的な自己決定の強制は、いずれも否定される」。
(前掲、320頁。)

と主張した上で、「基本権保護義務は、基本権保護のための理論であると同時に、防禦権保障のための理論である」(前掲、322頁。)と述べておられます。


 私が取り上げたインターネット検索事業者にまつわる問題は、高度に進歩したコンピュータ・ネットワーク技術と、爆発的なインターネットの普及、さらには、(決して悪意があるわけではない)寡占的インターネット検索事業者の存在が生み出したものです。

 インターネット検索事業者が主張する表現の自由(&営業の自由など)と、市民が主張する表現の自由ストリートビューについては、プライバシー権)の対立は、単純に双方の権利を比較衡量して解決できるのでしょうか・・・。

 勉強に費やすことのできるタイムリミットがやってきそうですので、今朝の締めとして、もう一度だけ小山先生の文献から引用させていただいます。ちょっと引用しすぎです(苦笑)けど、小山先生の「生のご意見」をご紹介した方がよいように思いましたので。


 「現在の人権問題、たとえば科学技術の発展、とくに遺伝子工学原子力技術、コンピュータ・ネットワーク、マス・メディアの発展がもたらす人間の存在と尊厳に対する新たな危険は、もはや学問・研究の自由、営業の自由、通信の秘密、表現の自由などを一面的に尊重することによって適切に対処できるものではない。国による最低限の規制と秩序維持は、従来の憲法論における暗黙の前提とは異なり、放っておいても自ずと実現されるものではない」。
(前掲、321頁。)

 私の論文についても、そろそろ締めの段階に入る必要があります。「切り札としての人権論」と「国の基本権保護義務論」を適用して、いったいどういう結論が導かれるのでしょう・・・楽しみです。


 昨夜は、昇天された塾員の鍵田さんに対して、妻とともに思いをはせていました。私たち家族がロス・アンゼルスでの生活を終え帰国する日の朝、LAX(ロス空港)の出発ゲートまでお見送りしてくださった鍵田さんの「愛」に敬服します。


"Do everything in love. "( 1 Corinthians 16:14)
「いっさいのことを愛をもって行いなさい。」(コリント 16章 14節)