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自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

「表現の自由」と国家の義務:ジョセフ・ラズ先生などの文献から学ぶ

 ジョセフ・ラズ先生の文献は、どうやらかなり難解らしく、玄人向けのように感じます。初めてドゥオーキン先生の文献を勉強し始めたころの感覚と似ています。

 ラズ先生は、1985年にオックスフォード大学の法哲学教授になったようです。ドゥオーキン先生と同じく、H.L.A.ハートの弟子であり、後継者とのことですが、「ドゥオーキンが独自の理論を展開しているのに対して、ラズは、どちらかと言えば、ハートのイギリス分析的法実証主義の伝統を基礎にして理論を展開している」とのことです。
※ジョセフ・ラズ(深田三徳編)『権威としての法』勁草書房、1994年、1頁。

 
 ジョセフ・ラズ教授は、人は自律的であるためには、ある選択を与えられるだけでなく、十分なだけの一群の選択をあたえられなければならない(※1)と述べています。

 また、表現の自由が存在し行使される限りで、描写・表現される生き方は描写・表現されることによって認知されるのであり、表現の持つこの意義からして、検閲が意味するのは、検閲される表現という特定の行為の不当認定のみならず、表現が一部となっている(すべての)生き方全般の不当認定であるとしています。さらに、内容に基づいてなされる検閲により生き方を拒絶することは侮辱的かつ苦痛を与えるものであり、諸個人が認知を与える機械を否定するのみならず、検閲された生き方を公権的に不当認定することとなる(※2)と述べています。

 国家とその法については、市民の自己実現の機会を保障するサービス機関として、かつ、その場合にのみ政治的権威を持つものとして捉えました。その国家と法が正統な権威であるためには、自律的に自己実現を目指し、かつ、そうする自己を表現しうる市民が、自由に活動するのに十分な物資的基盤と政治的自由を保障することであり、自由な市民が主体性を発揮するのに十分な現実的選択肢を提供しうる環境の育成が義務であるとしています(※3)。

 
※1)ジョセフ・ラズ(森村進訳)「自律・寛容・加害原理」ジョセフ・ラズ(森際康友編)『自由と権利』勁草書房、1996年、248頁。

※2)ジョセフ・ラズ(瀧川裕英訳)「自由な表現と個人の証し」ジョセフ・ラズ・前掲295頁。

※3)ジョセフ・ラズ(森際康友訳)「自律・権威・公共善」ジョセフ・ラズ・前掲、330頁以下。

 奥平名誉教授も、「『表現の自由』を活性化する仕事は本質的に公共的な性格のものであり、国家こそがになうべきことがらである。ことは、『自由規制』ではなくて『自由の促進』(affirmative action)に向けた国家活動である」と述べた上で、「これからの『表現の自由』論は、こうした方面の開発を考察し、『表現の自由』を実質化することでなければなら」ず、単に「表現の自由」論だけで済ませ得るものではなく、「国家」をどう再構築するかという大問題と連繋して論ぜられねばならないと主張しておられます(※4)。

 長谷部教授も、「法廷メモ訴訟判決」をもとに自由な表現空間が持つ公共財としての側面に着目し、特定の公共財を国家が提供すべき義務を負う典型的な場面として、公共財としての自由な表現空間の確保にあたる国家の義務と、それに対応する国民の表現の自由を挙げておられます(※5)。

※4)奥平康弘『「表現の自由」を求めて』岩波書店、1999年、342頁。
※5)長谷部泰男『憲法の理性』東京大学出版会、2006年、136頁。

 以上から、「表現の自由」の問題は、単に憲法21条の問題にとどまるのではなく、国家の義務や、国家の再構築という問題と併せて論ずる必要があると解します。

 「国家」をどう再構築するか・・・うかつに論ずることができかねる問題ではありますが、「未来への先導」をそのコンセプトとして掲げておられる慶應義塾創立150周年事業
http://keio150.jp/

のタイミングに意図せず在籍する機会に導かれた以上、社会人大学生として本論文を通じて検討できる機会を大切にしてみたいと思います。

 他の大学に比べて特段「慶應大学だから」というような高慢な気持ちを持つつもりはありませんが、せっかくの機会ですから論文の片隅にでも国家再構築論の持論を述べておきたいと思います。それが、意図せず次のステップへの架け橋になるかもしれませんしね。

 私の場合、正直言って決して思い通りの人生を送っているわけではないですが、それをも受け入れつつ、与えていただいた導きと恵みに感謝するべく「今」を喜び大切にしていきたいと思います。


For who makes you different from anyone else?
What do you have that you did not receive?
And if you did receive it, why do you boast as though you did not?
(1 Corinthians 4:7)

「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。
あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。
もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(コリント第一4:7)