言い尽くせない感謝

自己啓発や聖書に関する事等掲載中。引用聖句:新改訳聖書©新日本聖書刊行会 英文聖句:New International Ver.

街角や広場などで一生懸命キリストの愛を伝えるご夫婦

 今春に導きがあり、日本に限らず海外の街角や広場などで、できるだけ毎日一生懸命キリストの愛を伝えるご夫婦と懇意にさせていただいています。ご主人は英国生まれの60代で歩くのが不自由な方、奥様は被爆地広島生まれの70代です。

 適時お会いさせていただくたびに、その毎日の生き方に頭が下がります。猛暑の中、汗だくになりながら他の方の幸せを願って生きておられ、残りの人生を他人の幸せのために精一杯生きる活動を毎日しておられます。

 なにが素晴らしいかといいますと、それを言い表すのが難しいですね。単にクリスチャンとしてどうであるという単純な話ではなく、一言でこの素晴らしさを表現するのは困難です。


 世界で20億人を超えるとも呼ばれるクリスチャン人口ですから、私も含めてさまざまなクリスチャンがいます。中には、上記のような活動をするクリスチャンをみて、自らがそのような神様に喜ばれるような活動をしていないことを棚に上げて

 「なにもそこまでしなくても・・・」

 「そういう活動をしない私のどこがいけないの?」

 「同じクリスチャンでも、怪しい宗派じゃないの?」

というように批判的な目でみる人もいるかもしれませんが、それは筋が違う話になりますね。

 

 クリスチャンという視点でなくても、ある一つのことについて一生懸命ある時期打ち込む姿勢はとても学ぶべきところがあります。また、他人の幸せのために命を掛けて活動しておられることについて、私自身が何か批判できる根拠を持ち合わせてはいません。


 私もクリスチャンになる前がそうでしたが、クリスチャンでない方にとっては、

 「キリストの愛のお話は勘弁してー」

というお気持ちになるかもしれませんが(笑)、昨今の猛暑の中、代々木公園等で残りの人生をすべて他人の幸せのために注いでおられる、いわば老夫婦のお姿から学ぶべきところがあればシンプルに学んでいただければうれしいです。

 きっと仕事や学問、家庭生活等で何らかの一助に繋がると思われます。


 聖書でも、次のようなお話があります。

 姦淫の罪を犯した女性を皆で石を投げつけてなぶり殺しにしようとした際に、Jesus Christが、

「自ら罪のない者から、この女性に石を投げなさい」

と言いました。

・・・結局石を投げる人(投げることができた人)は誰もおらず、皆立ち去ってしまいました。


 聖書のマタイ書には次のように記されています。

”Do not judge, or you too will be judged.
For in the same way you judge others, you will be judged,
and with the measure you use, it will be measured to you.” (Matthew 7:1-2)

「さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、
あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1-2)



 慶應大学法学部での卒論における「表現の自由」論で取り上げさせていただいたジョセフ・ラズ教授は、人は自律的であるためには、ある選択を与えられるだけでなく、十分なだけの一群の選択をあたえられなければならない(※1)と述べています。
※1)ジョセフ・ラズ(森村進訳)「自律・寛容・加害原理」ジョセフ・ラズ(森際康友編)『自由と権利』勁草書房、1996年、248頁。

 多様な思想・意見を受容することで、東京大学の長谷部教授がおっしゃる通り「寛容の精神」が宿ることに繋がるかもしれません。
 

 ところで昨日は、仕事面で都内から夕方帰社すると、またまた想定外のトラブルで騒ぎになっていました。きっと今日も何かそういったトラブルがあるでしょう。そうすれば、明日のことも心配になるものですが、以下の暗唱聖句の通り、一日一日、まずは丁寧に生きてみたいと思います。


●本日の暗唱聖句
Therefore do not worry about tomorrow, for tomorrow will worry about itself.
Each day has enough trouble of its own.
(Matthew 6:34)

あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。
(マタイ6:34)